遠心力(真正遠心力)について

(1)プロローグ

 子供のころ遊園地に行くと、少し大きな「筒形」の部屋がありました。ただし「天井」は無かったように思います。

 そしてその筒形の部屋に入り、その筒全体が「回転」を始めると、次第に押しつぶされるような「不思議な力」を全身に感じました。

 そして思いました。「これはいったい何だろう?」と。そしてそれが「遠心力」と呼ばれていることを知りました。

 「遠心力」という「言葉」は分かりました。

 しかしそれでもその「遠心力」が何であるかは分かりませんでした。

 そして長じるにあたり、幼少の時の疑問に答えて見たくなりました。

 ここに、私なりに「遠心力」について分析・考察した結果をお示しいたします。そしてこれが、幼少期の私への現在の私からの回答となります。

 

 

(2)向心力について

 ところで、後ほど解明致しますが、この「遠心力」は実は「向心力」から生じます。

 したがって、この遠心力」の解明・分析に先立ち、まずはこの「向心力」について、分析・解明を進めることと致します。

 

 なお、この「向心力」と同義の言葉に「求心力」という言葉があります。

 「向心力」も「求心力」も「意味」としては「同じ」です。

 しかしその「ニュアンス」はやや異なります。

 「求心力」呼ぶ場合、この求心力の「本質」が、回転運動の「中心」に有る、と思われがちです。

 しかしこれに対して「向心力」と呼ぶ場合、この「向心力」」の「本質」が、回転運動の中心から「離れた」場所に生起していることを、示しています。「向」が成立つ為には、まずは「離れて」いなければ、そもそも「向かって」行けません。

 この「向心力」は、回転運動の「円周上」に生じ、その力の「方向」は、「結果として」回転運動の中心へと、「向かう」こととなります。

 したがって私は、「語感」としては「求心力」という言葉の方が好きですが、論理の明確性の為に、敢えて「向心力」という用語を使用することと致します。

 

 さてこの「向心力」の分析に先立ち、若干の「前分析」をしておく必要があります。

 囲碁で言えば「布石」であり、後々この布石が効いてくることとなります。

 まず第1の「前分析」は、単純な「反撥運動」についてです。

 

① 直進するボールの反撥運動について。壁に直角に当たる場合、ボールは、投げた場所に戻ります。この場合、ボールの運動方向は「逆」になりますが、その「大きさ」(速さ)は「同じ」です。

② 次に、斜め方向から壁に当たる場合です。この場合、ボールの運動「方向」は「変わり」ます。しかし「入射角」と「反射角」とは「同じ」大きさとなります。またその「速さ」も「同じ」です。

 

 次に考察・分析するのは、「f =ma」、すなわちニュートンの「運動の第2法則」です。

 これは物体の「慣性」に関わるニュートンの「運動の第1法則」とともに、非常に重要な法則です。

 一見非常に「単純」な法則に「見えます」。しかし、この「f=ma」を詳細に分析していくと、なかなかそう一筋縄では行かないのです。

 

 まずはこの「f」()です。この「f」()とは一体「どのような」「力」でしょうか?

 例えばこの「f」は物体が「静止」した状態において作用する「力」でしょうか?

 それとも物体が「運動」している時に作用している「力」でしょうか?

 それともその「両方」でしょうか?

 こう設問するだけで、今まで「分かって」いたと思っていた「f」()が突然「正体不明」のものに思えてきます。

 

 またこの「a」(加速度)についても同様です。この「a」は「等」加速度ですか?それとも「不」等加速度ですか?

 またこの「加速度」は「連続」していますか、それとも「断続」していますか? 「断続」している場合にも「f=ma」が成り立ちますか、成り立ちませんか?

 こう考えただけで、今まで「分かっていた」と思っていた「a」(加速度)なるものが一体何なのか、全く分からなくなってきます。

 

 さらにこの「a」(加速度)が、「g(引力加速度)であっても同様に成り立ちますか、それとも成り立ちませんか?

 「a」と「g」との間に何か顕著な「違い」がありますか?

 

 等々と考えていくと、今まで「分かっている」と思っていた「f=ma」なるニュートンの「運動の第2公式」がさらに一層全く理解できないものとなってしまいます。

 

 この事により、さらに大きな「謎」が生じます。

 すなわちこの「f=ma」という慨念がこれほど多様で、ある意味「矛盾」し合っているにもかかわらず、「実際上」大した混乱も矛盾も生じないのは、一体「何故か?」という新たな「謎」が生じます。

 

 これらの「疑問」・「謎」を解明する為には、まずはこの「f= ma」の「根本」に立ち返ろうと思います。

 そしてその後で、その根本概念が一定の「変形」を受け、一定程度「別の」概念へと「転化」していく状況を確認します。

 そして最後に、この「変形」がなぜ「可能」なのか、あるいは「許容」できるのか、その「原因」と、その許容の「範囲」あるいは「程度」を考察したく思います。

 

(3)運動の第2法則(f=ma)の分析について

 さてここで「f=ma」の根本概念に立ち返ろうとすれば、やはりニュートンに立ち返るほかはありません。

 ニュートンの立場に立って考えれば、この「f」は、まずは「静止力」ではなく、「運動過程」で作用している「力」であると考えられます。それが故にこの「a」は厳密には速度vを時間tで微分したもので表わされます。すなわちこの「f」(力)、は「速度」を持つ物体に生じるあるいは生じている「力」を表わしています。したがって、ニュートンの立場に立てばこの「f」は、「速度」を持つ物体、すなわち「運動過程」において作用している「力」を表わしています。

 

 またこの「a」が微分で表されていることにより、この物体は「連続運動」していることが分かります。何故ならばこの物体が「連続運動」していなければ、その物体の「速度」も連続しておらず、連続していない速度に係る方程式は、一般には「微分」できないからです。

 

 また、「f=ma」における「a」が速度の「微分」で表わされることにより、この「a」は「等加速度」を前堤にしているものと考えられえます。

 ここで一般に、「距離」sの計算においてs=1÷2×atが良く使われますが、これは「a」が「等加速度」であることを「前提」としたものです。

 この「a」が「不」等加速度であるならば、そもそもこの式は成り立たないはずです。

 

 次に、この「a」(加速度一般)と「g」(引力加速度)とでは、何か「違い」があるでしょうか?

 ここで考察を厳密にするために、この「a」を「加速度一般」ではなくて「物的加速度」であるとして、「概念」を「限定」することとします。ここで「物的加速度」とは「張力」や「弾力」など、「物体」を通じて伝達される「加速度」です。

 他方「g」については、一般的には「重力加速度」を意味します。「重力加速度」とは「万有引力の公式」によって導かれる「引力加速度」に、地球の「自転」による「遠心力」(遠心疑似力)の影響を加味したものです。ここでは考察の簡便化の為に、この「g」を「引力加速度」として考察を進めます。

 

 するとこの「a」(物的加速度)が生じているのは、一定の「例外」を除いて、その物体が「f」(ここでは物体的力)を受けている、まさに「その時」だということが分かります。

 ここでその「例外」というのは、壁に向かって投げたボールが跳ね返るその一瞬「静止」している、そうした場合のことです。この時このボールは一瞬「静止」し、しかもその時壁とボールとの間には「力」が存在します。

 しかしそれは一瞬です。壁とボールとの間に生じた「力」(物体的力)によって、そのボールは「加速」(物的加速度)されていきます。この間、この「力」(物体的力)は、このボールを「加速」(物的加速度)し続けます。

 そしてこの「物体的力」による「加速」過程が終了すると、このボールは「等速」運動へと移行します。この時、ボールはもはや「加速」せず、また「物体的力」もまた消え去っています。

 つまり「a」(物的加速度)においては、一般的に、「力」(物体的力)が作用しているとき、「a」(物的加速度)が生じており、逆に、「a」(物的加速度)が生じているときは、「物体的力」も存在している、ということができます。

 

(4)運動の第2法則における物的加速度と引力加速度について

 他方、「g」(引力加速度)においては、どうでしょうか?

 物体を地上に置き、「静止」させている状態でも「重力」が生じています。

 ここでこの物体を「落下」させるとどうなるでしょうか?

 「引力」によって、物体は「引力加速度」を得て、「加速」していきます。

 この時、「引力」は作用していますが、「落下」運動によって、「重力」はこの間消滅しています。すなわち「重力」という観点から見れば、「力」(重力)は一般的に、「静止」している状態において存在し、「加速運動」(落下)の状態において「消滅」しています。

 

 つまり、一般的に、「a」(物的加速度)と「g」(引力加速度)とは、「同じ」「加速度」であるにも関わらず、「力」と「加速」・「静止」との関係においては、その性質が「全く逆」となっているのです。

 

 このことより、「f=ma」という公式において、この「f」(物体的力)が、あたかも「静止力」であるかのような、「誤解」・「錯覚」が、半ば必然的に生じます。

 

 この結果この「f=ma」における「f」が、あたかも「無時間的」に存在するかのような外観を呈します。

 しかし実際上、この「a」(物的加速度)が「時間」の中で存在するように、この「f」(物体的力)もまた、「時間の中」で」存在します。

 そしてこの「f」(物体的力)は、それによって生じる「a」(物的加速度)が存在する「その」時間内にのみ存在し、その時間が経過してしまえば、「a」とともに「f」も消滅し、後には「等速運動」(あるいは静止状態)のみが残ります。

 

 

(5)運動の第2法則と断続的力について

 このように厳密に考えれば、実生活上この「f=ma」という公式はほとんど使いものにならないようにさえ思われてきます。  

  何故ならば、「現実」に生じている「a」は必ずしも「連続」しているのでも、「等」加速度運動をしているのでもないからです。

 たしかに、「g(引力加速度)については、「連続」しています。

 また一定の範囲で、すなわち「引力」の中心からの「距離」が大きくは変化しない範囲において、この「g」は「等」加速度である、と考えることができます。

 他方、「a」(物的加速度)については、一般的には「断続」的である場合が多いと言えます。

 例えば「物体的力」と「物的加速度」を生じる「エンジン」がそうです。

 「エンジン」の「出力」は、燃料が「爆発燃焼」する事によって生じます。

 このようにこの「爆発燃焼」によって生じる力それ自体は、瞬間的に生じるものです。このエンジンにおいては、こうした「爆発燃焼」が「連鎖」的に生じ、そのことにより、「出力」を生じます。

 

 「モーター」においても同様です。一般に交流モーターを駆動する際には、50ヘルツや60ヘルツの「交流」を使います。すなわち「出力」を生じる「電流」そのものが「脈動」しているのです。したがってこの「脈動」によって生じる「a」自体は「等」加速度ではありません。

 

 こう考えると、「f= ma」という公式を利用できる局面は、「実生活上」極めて限られてくるかのように思えてきます。

 しかし、「厳密」にはそうであっても、「実生活上」は、この「f=ma」という公式は結構「融通性」があって、結局のところは結構使えます。

 ということで、次にはこの「f=ma」という公式の融通性について分析・考察を進めて行きたく思います。

 

  さて、「エンジン」の出力について戻ります。

  たしかに、エンジンの11回については、そこに生じている「力」それ自体は「瞬間的」な「力」です。

  しかしその「力」は「連鎖」しているのです。

  すなわち「断続的力」が「連鎖」しているのです。

  このことにより、11回については「断続的力」であっても、「一定の時間」、例えば「1分」という時間内においては、あたかもそれが「連続的力」であるかのようにみなせる場合があるのです。

 

 例えば、一分間に3000回転するエンジンを考えてみます。

 するとその1回1回の「爆発燃焼」によって生じる「加速度」自体は「瞬間的」であっても、その「瞬間的加速度」によって生じた「速度」は残り、次の「燃焼爆発」へと引き継がれ、「次の」燃焼爆発によって生じる「瞬間的加速度」が、この速度に、「新たな」速度を「加えて」いくのです。

そしてこのエンジンに「むら」が無いならば、このエンジンの名燃発燃焼「毎に」、新たに「同じ」速度を「付加」していきます。

 

(6)運動の第2法則と質量について

 しかし、逆にこのような「断続」・「不等加速」運動が、「常に」「連続」・「等加速」運動とみなせるのでしょうか?

 このことを分析・解明するためには、原点である「f=ma」にたち戻る必要があります。

 これまで「f」と「a」との関係について、分析・考察を進めてきました。

 しかし。このこれまでの考察について、一つ「抜けて」いる点がありました。

 すなわち、「m」(質量)についての分折・考察が抜けていました。

 

 この「m」については、「f」が同じ場合、「m」が2倍になれば「a」が2分の1になり、「m」が、2分の1になれば、「a」は2倍になる、と捉えられています。

 確かにそのとおりです。しかしこの「f=ma」において、この「m」が果たす役割はそれに止まらないのです。

 

 具体的に例をあげて考えてみます。

 エンジンにおける「a」(加速度)を考える場合、「a」(加速度)と「m」(質量)との閲係は、「階段」と「ボール」との関係に例えることができます。

 

 このボールを階段の上から落としたとして、「階段」に比べて「ボール」が充分に小さい場合、ボールは「断続的」に落ちて行きます。

 しかし、「階段」に比べて「ボール」が充分に大きい場合、このボールの落下は「滑らか」になり、「滑らかに」落ちて行きます。すなわちより「連続的」に落ちて行きます。

 そしてこのボールが大きくなればなるほど、このボールの落下は、一層「滑らか」となって行きます。

 逆にまた、「ボール」の大きさに比較して「階段」の一段一段の幅や高さが小さければ小さいほど、このボールはより「滑らか」に、つまりはより「連続的」に落下していきます。

 

 「a」(加速度)と「m」(質量)との関係も同じで、「m」(質量)が大きければ大きいほど、「断続的」加速度はより「滑らか」に「連続」し、「等」加速度運動に近づいて行きます。

 また逆に、「m」(質量)の大きさに比べて「断続的」加速度運動のその「断続」の幅が小さいほど、この「断続的」加速度運動はより「滑らか」に、より「連続的」となり、「等」加速度運動に近づいて行きます。

 

 そのため、この「断続性」と「連続性」との間の「どこ」に線を引くかは、単に「f=ma」という公式から明らかなるものではなく、結局はこの公式を使う「人間」の「目的」、「状況」・「条件」等に依ることとなります。

 

 これは「どのような」はかりを使えば「適正」か?という問題に類似しています。

 「どのような」はかりを使えば良いかは、そのはかりの「使用目的」や計量する「対象」に依っており、それが違えば使用すべきはかりの選択もまた違ってきます。

 

 高価な物質を少量だけ計量する場合や、化学分析に使用する場合は、1目が1mgあるいはそれよりも細かく計量できるはかりが、必要となるでしょう。この場合、1目が1gであるようなはかりでは、目が荒すぎて役には立たないでしょう。

 しかし、お肉200g程度を量る場合には、一般的には1目1gのはかりでも良いでしょう。  

 

 さてここでもし200g程度のお肉を量るのに、1目1mgのはかりを使えばどうなるでしょうか?その結果は、例えば198793g201031g199487g18989g・・・などとなってしまいます。

 ? おっと1桁違ってしまいました。最後の数値だけは1桁違っていました。このお肉は量目不足の「欠量」となってしまいました。

 どこに問題があったのでしょうか

 数値の厳密さにこだわるあまり、最重要の情報である「桁」が分からなくなってしまったからです。

 つまりは、目的・状況に応じた「適切」なはかりを使用しなかったからです。

 

 「f=ma」の公式も同様です。どのような「厳密さ」でこの公式を用いるかは、最終的には、それを使用する「人間」の「目的」や「条件」等に依ってきます。

 

 ポンポン船というものがあります。「焼き玉エンジン」を使うもので、文字通り「ポンポン」と音を立てながら進みます。

 1分間3000回転のエンジンに比べれば随分「断続的」な出力のエンジンです。それでも出力を生じ前へと進みます。水上ではこの「断続的」出力の衝撃力が「水」によって多少緩和され、一応我慢ができるものとなります。しかし、地上では、この「断続的」力が直接体に伝わり、おそらく「ポンポン自動車」は我慢し辛いものとなるでしょう。

 

 他方1分間3000回転するエンジンであれば、そのような「衝撃力」は随分緩和されるでしょう。それでもエンジンの「断続性」は「振動」となって体に伝わり、「音」となって耳に届くでしょう。

 

 日常的に私たちが関わっている「物体的力」とは、このようなものなのです。   

 すなわち、一般的に「物体的力」とは「断続的」な力の「連鎖」であり、その「断続的」な「力」が「同じ」大きさで、極短時間に繰り返し連鎖している為に、これを「連続的」としてみなしているのです。しかし、その「本質」において、ポンポン船のエンジンも1分間に3000回転のエンジンも何ら変わるところがないのです。

 

 

 そして1分間に3000回転のエンジンが概ね「同じ」大きさで連鎖して行く結果、ここに生じる加速度は、単に「連続」した「加速度」であるだけではなく、「等」加速度と見なすことができます。

 何故ならば、瞬間瞬間の「爆発的燃焼」による「力」が1回1回ほぼ「同一」である為に、そこに生じる「瞬間加速度」は「同―」であり、その結果生じる「新たな」速度も「同―」であるからです。したがってこの1分間に3000回転するエンジンは、この1分間に、「等加速度」を生じる、と「見なす」事ができます。

 

 これにより、エンジンの出力の「連続性」はこのエンジンの「断続性」を基礎としたものであり、このエンジンの「等」加速度性は、このエンジン「不」等加速度性を基礎としたものであることが分かります。

 さてこの1分間3000回転のエンジンについて言えることは、1分間の時間スパンを例えば24時間に引き伸ばしたとすれば、ポンポン船のエンジンにも当てはまるでしょう。

 

 以上現代における「物体的力」の代表格である「エンジン」についての考察を終えたところで、次は現代におけるもう一つの代表格である「モーター」について考察を進めてみます。

 

(7)運動の第2法則と「不」等加速度運動について

 モーターは、エンジンに比べるとその出力が一層「連続的」であると思われます。

何故ならば、モーターの出力の基である「交流電流」が「サインカーブ」を描いているからです。

 入力である「電流」がサインカーブを描くならば、その「出力」もまたサインカーブを描くでしょう。

 サインカーブが「連続的」であるので、「出力」もまた「連続的」でしょう。

 これでめでたしめでたしと言いたいところですが、もう少し分析を進める必要があります。

 入力が「サインカーブ」を描き、出力もまた「サインカーブ」を描くとすれば、それは一体どういう状態でしょうか?

 それは1サインカーブの間は、「等」加速度では「無い」という事を表わしています。

 これでは結局はまた「f=ma」という公式を、単純には使えない、ということになってしまいます。

 

 しかし、このモーターの場合も、エンジンの場合と同じように考えることができます。

 すなわちエンジンの場合と同じように、長い「階段」を考えれば良いのです。

 ただしこの「階段」は一つ一つが「サインカーブ」を為しており、通常の階段よりは、やや「丸味」を帯びているものと考えれば良いのです。

 

 こう考えると、モーターの場合も、エンジンの場合と結局は同じ結論となります。

 すなわち1定の時間スパンにおいては、このモーターの出力を「連続的」と見なせるとともに、このモーターの「出力」が「一定」であり、これによって生じる「不」加速度が「等」加速度である、と見なせることとなりました。

 

 以上、「同―」の「断続的」加速度の「連鎖」は、一定の条件の下で、「連続的」加速度とみなせることが分かりました。

 また、「同―」の「不」等加速度の連続は、一定の条件の下で、「等」加速度と見なせることが分かりました。

 

(8)運動の第2法則と平均の意義について

 ここでこの「等」加速度aの「性質」について、若干分析を行ないたいと思います。

 これまでの分析から明らかるように、この「等」加速度aは一種の「平均」です。

 「平均」とは、「抽象的」な値です。

 数値1と3とがあるとします。その「平均」値は2です。しかしこの場合、2は実際には存在しません。実際に有るのは1と3だけです。

 その意味でこの「平均」値である2は「抽象的」な値です。

 しかしそうであってもこの「平均」という概念は、現代統計学において重要な役割を果たしています。

 正規分布、標準偏差、不確かさ、移動平均、季節指数、確率、期待値・・・等々、「平均」の概念抜きには現代統計学は成り立ちません。

 また単に「平均」といっても単純平均、加重平均、調和平均・・等多彩にあります。この意味において、この「等」加速度aは、「重要」で「意味」のある一種の「平均」であると、言うことができます。

 

 以上、「微少部分」では、「断続的」・「不等加速度」であるものが、「全体」としては、「連続的」・「等」加速度に「転化」することが分かりました。

 すると、今度は次のことも成り立つこととなります。

 すなわち、「全体」で「連続的」・「等」加速度と見なせるならば、「微少部分」においても「連続的」・「等」加速度である、と見なせることとなります。

 何故ならば「全体」とは、結局はこの「微少部分」の集積に他ならないからです。

 

 以上により、「断続的」・「不」等加速度であっても、「一定の条件」の下では、「f=ma」が成立することとなります。

「f=ma」の公式が、このように「柔軟性」を持つが故に、「f=ma」の公式は「実生活上」でも有効性を持つ「すぐれもの」と成ることができるのです。

 

(9)運動の第2法則と静止的力について

 以上、「運動過程」における「f=ma」の公式について考察・分析を進めてきました。

 しかし、この「f=ma」の公式は、「一定の状態」の下では、「静止状態」においても「一定程度」成り立つのです。

 ここで言う「一定の状態」とは、「ばね」を強く引っぱって「静止」している様な「状態」のことです。

 

 手で「ばね」を強く引っぱり、次にその手を外すと「ばね」は縮みます。その時その「ばね」の先に質量mの物体Aを置いておくと、「ばね」の縮みとともにその物体Aは加速され、最後に「ばね」から離脱するとともに、速度vで飛んで行きます。

 

 この時、1kg重の力で「ばね」を引っぱり、物体Aの質量を10gとし、飛んで行くときの物体Aの速度を1とします。

 次にこの1kg重の力で「ばね」を引っ張り、今度は物体Aの質量を5gとすると、この物体Aは速度2で飛んで行きます。

 すると「速度」が1から2になったのだから「加速度」も「倍」になったはずだと考えられます。

 したがって「f」が「静止力」であっても「f=ma」が成り立つように思えます。

 確かに「実生活上」はそれでも良いです。

 これが「f=ma」の公式のさらに「柔軟」なところです。

 

 しかし「実生活上」はそれで良くても、「学究上」はもう少し分析を進める必要があります。

 まずはこの「f」の性質です。

この場合、力「f」を生じるのは「ぱね」なので、この「f」の「性質」は「張力」である、ということになります。

 ところで「ばね」の「張力」は、「フックの法則」すなわち「f=-kx」に従うとされています。するとこの「ばね」に生じる力は、最初は1kg重であっても、ばねが「縮む」に従ってこの力は「滅衰」して行き、最終的には、「零」となります。

 

 以上により、この「ぱね」による力は「一定」ではなく、従ってここに生じる「加速度」は「一定」では無い、つまり「不」等加速度である、ということとなります。

つまり「等」加速度ではないものを、「実生活上」の便宜の為に「等」加速度と見なしているが、「実生活上」は、大した不都合は生じない、ということになります。

  

(10)回転運動における張力について

 以上の考察を経て、いよいよ「向心力」の分折へと移ります。

 ここではまず一本の「棒」を考えます。

 そしてその「棒」の両瑞にそれぞれ同じ質量の物体を取り付けます。

 そしてさらにこの「棒」の中心を回転の中心として、この「棒」を回転させます。

 「棒」の両側に同じ質量の物体を取り付けたのは、単に「バランス」を良くし、回転を滑らかにする為です。

 

 ということで、この物体の両方を同時に考察することは面倒でもあり、意味も無いので、この棒の片側だけを考察することとします。ここでこの棒の1瑞をBとします。ここに物体Aを取り付けるとします。そしてこの棒端Bと物体Aとの「結合部」をCとします。そして物体Aと反対側の物体についての考察が必要となる場合には、この反対側の物体を物体Aと呼ぶこととします。同様に反対側の棒端をB′とし、そこにおける結合部をC′とします。

 

 そしてこの棒を「回転」させるとします。

 この棒を回転させる前は、この棒端Bと物体Aと接合部Cとは、ほぼ「同じ」位置にあります。

 そして、この棒を「回転」させる為には、まずは「外力」を加える必要があります。

 そこでこの「外力」を、物体A加えます。

 この際より安定した回転運動を得る為には、この加える「外力」の「向き」が重要です。

 この外力は、「回転運動」の「接線方向」に力える必要があります。

 ここで物体Aに「外力」を加える地点を「P」点とします。

 

 さて、P点で「外力」を加えました。

 すると、物体Aは「慣性の法則」に従って、「等速直線運動」をしようとします。

 他方棒端Bは、棒の「中心」に引っ張られて「円運動」をしようとします。

 この結果、棒瑞Bと物体Aとの間の結合部Cは、棒端Bと物体Aとの双方から引っ張られることとなります。

 この結合部Cが双方に引っ張られる結果、結合部Cには「張力」が生じます。

 

 ここでもしこの結合部Cの「張力」が極めて弱くまたこの結合部Cが際限無く伸びて行くことができるならば、物体Aは、棒端Bの回転とはおかまいなしに、どんどん前へと進んで行きます。

しかし、この結合部Cの張力が充分に強ければ、物体Aはその「張力」を受けて、棒端Bへと引き付けられていきます。

 

 この場合において、結合部Cに働く力は「張力」であって、いわば「ばね」と同類の力です。ここに働く力が「張力」であることにより、「フックの法則」に「類似」した力が働くはずです。

 

 「ばね」において、そこに働く力は、「伸び」の大きさに比例します。この「伸び」による力の大きさは、「ばね」が「伸びる」場合にも、一たん伸び切った「ばね」が「収縮過程」に入った場合にもその「伸び」が「同じ」であれば、そこに生じる「力」もまた「同じ」です。「f=-kx」は、その「ばね」が「仲長過程」にあっても、「収縮過程」にあっても、「x」が「同じ」であれば、「f」の大きさも同じだからです。

 

 さてここでは、この外力を「一瞬」与えるものとした場合について考察します。

 この「外力」の作用は「一瞬」ですので、この「外力」は物体Aに「一瞬」作用し、その後すぐに「消滅」します。すなわち、引っ張った「ばね」の力で物体Aを弾くような、「見かけ」上の「静止力」を作用させたような場合を想定します。

 

 さてこのP点で物体Aに「外力」を一瞬与えると、この「外力」によって物体Aは「運動エネルギー」を得て、「等速直線運動」を行おうとします。

 しかし、物体Aは結合部Cで棒端Bに結合されています。

 これにより、結合部Cに「張力」が生じます。

 この「張力」により、物体Aは棒端Bへと、「引き寄せ」られて行きます。

 

 他方棒端Bは、中心からの「距離」が固定されているために、「円運動」を行おうとします。

 これにより、物体Aが行おうとする「等速直線運動」と、棒端Bが行おうとする「円運動」とその両者の軌道間の「差」が、ますます大きくなっていきます。

 

 これをボールの運動に例えると、「平面」を転げようとするボールの前に「坂道」が立ち塞がった状態になぞらえることができます。

 

(11)回転運動における運動エネルギーと位置エネルギーについて

 この「坂道」に到達すると、「運動エネルギー」を持ったボールは、坂道を「上り」始めます。この上って行く過程で、このボールの持つ「運動エネルギー」は次第に失われて行き、このボールの「速度」は少しずつ遅くなって行きます。

 このように、このボール「運動エネルギー」は「低下」して行きますが、他方、坂道を上って行くことにより、その「位置エネルギー」は増大して行きます。

 

 そしてこの「坂道」の「頂点」に達するや否や、今度はこの坂道を「下り」始めます。

 この時、このボールの「位置エネルギー」は「運動エネルギー」へと変換され、ボールの速度は次第に早くなって行きます。そしてこの坂道を下り切った時、このボールの速度は、坂道を上る直前の「速度」に復帰しています。

 

 ここでこの「坂道」に相当するのが、この結合部Cです。

 ボールが坂道を上って行く過程は、結合部Cが「伸びて」行き、これにより「張力」の「位置エネルギー」が「蓄積」されていく過程を表しています。

 そしてこの坂道の「頂点」は、この結合部Cが「伸びきった」状態を表します。結合部Cの「張力」が伸びきった「頂点」の地点を「Q」点とします。

 

 さて、ボールが坂道の頂点を超え、今度は坂道を下って行く過程は、結合部Cに蓄積された張力が解放されて行く過程を表しています。

 そして、結合部Cが縮み切り、位置エネルギーを解放し切り、物体Aの速度の大きさが当初の速度の大きさ、すなわち「初速」に復帰する地点を「R」点、とします。

 

(12)回転運動と反射運動について

 ここで、「外力」を加えられた物体Aの運動は、「反射」運動になぞらえることもできます。

 ここでこれらの運動を「反射運動」になぞらえると、「外力」の入力後の、結合部Cの伸長に伴う物体Aの運動は、「反射運動」における「入射過程」に当たります。

 

 張力の頂点であるQ点を越えた後の、結合部Cの「収縮」に伴う物体Aの運動は、「反射運動」の「反射過程」に当たります。

 

 ここで、棒の回転運動の「中心点」をO点とします。

 そして張力の頂点であるQ点と中心点O点とを結ぶ「線」を、「頂点線QO」とします。

 ここで、「外力」は「接線方向」に向かって投射されました。

 この「接線」と「頂点線QO」が交わる円を「S点」とします。

 すると、点P、点S、点Oとで成す「角度」が「入射角」に相当します。

 ここで注意を要するのは、斜め方向からボールを当てる場合には、壁に当たるまでボールは「直進」します。直進の過程では、引力の影響を除外すれば、その間「外力」が作用しないからです。

 しかし物体Aの場合は、これと異なります。

 物体Aは結合部Cの影響を受けて、その軌道を曲げて行くからです。

 その結果、張力の頂点Q点そのものは、S点よりは「内側」に位置することとなります。

 

 ここで、「反射角」は点R、点S、点Oとでなす角となります。

 「反射」において、「入射角」と「反射角」とは「同じ」です。

 したがって、「入射角」が「接線方向」であれば、「入射角」も「接線方向」となります。

 

 

(13)向心力の萌芽形態について

 このことを、もう少し精密に分析してみます。

 

 まず、「張力」における「フックの法則」は、「f=-kx」となります。

 ここでばねの「張力」は、「ばね」の「伸び」を表す「x」の大きさに支配されますが、この「伸び」が「伸長過程」での「x」なのか、それとも「収縮過程」での「x」なのか、とそういうことには影響されません。「伸長過程」にあろうが、「収縮過程」にあろうが、「k」の値と伸び「x」の値が「同じ」でああれば、張力「f」も「同じ」となります。

 

 したがって、「運動過程」におけるばねの「振動」の軌跡は、その頂点を境界として「左右対称」となります。

 このため、P点において接線方向に入力した「外力」は、R点において「接線方向」に「再現」されます。

 

 かくしてP点で接線方向に入力された「外力」は、まずは物体Aに「運動エネルギー」を与え、物体Aと棒端Bとが「離れて」行くことにより、結合部Cにおいて「張力」を生じます。

 そしてその「張力」の生成により物体Aに「位置エネルギー」を与えます。

 物体Aが頂点Q点に到達するや、今度は「張力」の「位置エネルギー」が解放されて、「運動エネルギー」へと転換されます。それとともに、物体Aと棒端Bとは互いに「接近」する方向に運動して行きます。

 そして物体AはR点に達し、そのR点において「接線方向」に運動するとともに、このR点において当初の「外力」を「再現」します。かくしてこの回転運動の「第1ステージ」が終わります。

 

 この「第1ステージ」の終了と「同時」に、「接線方向」に「再現」されたかつての「外力」、そして今や「内力」となったこの「外力」が、回転運動の「第2のステージ」を開始します。

 

 かくして、第2、第3、第4ステージ・・・と、運動が次々と「自己複製」されつつ「消滅」していき、持続し、全体として「一つの回転運動」を形成するに至ります。

 

 そしてこれとともに、「張力」の「方向」も絶えず「変化」しつつ、しかしこの「張力」の方向は「常に」、回転の「中心」へと向かい、「向心力」の「萌芽形態」を形成することとなります。

 またこの「向心力の萌芽形態」は、物体Aの運動とともに「回転」して行き、ここに「向心力」の「回転」を形成して行きます。

 

(14)回転運動と外力の関係について

 さてここで、入力される「外力」とこれによって形成される「反射角」との関係をもう少し分析してみます。

 まずこの「外力」が「弱い」場合、この「外力」によって物体Aが受け取るエネルギーは小さいため、物体Aに引き継がれる「運動エネルギー」もまた小さくなります。

 このため、物体Aの「等速直線運動」もまたその「速度」が小さくなります。

 

 ここで運動の起点であるP点において、P点上の「接線」とP点における「垂線」とが成す角度は「90度」でした。そして物体AがこのP点から離れていき「頂点」へと達しますが、「外力」が小さい場合、その「頂点」もP点からあまり離れません。

 その結果、P点、S点、O点で形成される「入射角」は、当初の角度である「90度」からあまり偏移しません。つまり「90度」から少し小さくなるだけです。

 

 次に、この入力される「外力」がもう少し「大きい」場合を考えます。

 すると、物体Aの「運動エネルギー」は少し「大きく」なりますので、物体Aはより「速く」、より「遠く」へと運動します。

 その結果、「反射」の頂点が、P点から少し「遠く」なります。

 その結果、S点の位置もP点から少し「遠く」なります。

 この結果、「入射角」PSOの角度はより「鋭く」なります。

 ここで「入射角」PSOと「反射角」RSOとでは、その角度の「大きさ」は「同じ」です。

 

 この結果、「QO」を境目として、物体Aの描く「軌道」は、「左右対称」となります。

 したがって、P点において、「接線方向」に入力された「外力」は、その第1ステージの終わりにおいて、R点において「接線方向」に「再現」されます。

 かくして運動の第1ステージが終わり運動の第2・第3・第4ステージへと、連続して各ステージが「複製」・「消滅」して行きます。

 この運動は、さらに「外力」を大きくした場合においても「同様」です。

 

 すなわち「一定の範囲」において、「どのような」大きさの「外力」を入力しようとも、その「外力」が「接線方向」に入力される限り、その「外力」がR点において、「接線方向」に「再現」され、一つの「ステージ」の終焉が、「新たな」ステージの幕開けとなります。  

 かくして次々と同一の運動が「複製」・「消滅」し、全体として「一つの」回転運動となるのです。

 

 以上により、「外力」が「接線方向」に入力される限り、その「外力」の「大きさ」に「関わりなく」、物体Aには「回転運動」が生じることとなります。

 

(15)循環的張力の向心力への転化について

 以上、「張力」が「振動」する状態での、物体Aの「回転」運動の分析を進めてきました。

 しかしこの段階に留まっていると、回転が「安定」した状態での「向心力」の分析へと至ることができません。

 

 これは、いわば「ポンポン船」の「焼き玉エンジン」を考察しているようなものです。

 通常私たちが使用している、「エンジン」や「モーター」はもっと「回転」が速いです。

 

 一定の時間内での運動について考察する限り、「回転数」の多寡は単なる「量」の問題に留まらず、「質」の問題へと移行・転化します。

 

 「向心力」の「本質」を分析するためには、まずその「運動過程」を「スロー」な状態で見てみる必要がありました。

 しかし、この「回転」数を上げていくとともに、次第に「量」から「質」への転化が生じてきます。

 

 回転運動の各ステージは「循環運動」であるとしても、1分間に3000回転もすれば、その各ステージは回転の「全運動」の中に溶け去ってしまいます。  

 「人間」にとって「重要」なのは、回転の「各ステージ」が「循環運動」をしているか否かではなくなります。この「回転」の全過程で、どのような「力」を生じるのか、どのように「加速」して行くのか、が重要となってきます。

 すなわち、個々のステージにおける「循環運動」における「不」等加速度が重要なのではなく、これらが「総合」された「平均」的な「力」、「平均」的な「加速度」が重要となってきます。

 

 かくして、この「回転運動」が一定の回転数に達し、かつまた「質量」の持つ「安定化作用」により、一層この「不」等加速度が、一定の「等」加速度と見なされる段階に至った時、その時単なる「循環的張力」は、安定した「向心力」へと「転化」します。

 その時初めて、「等」加速度として「向心力」、すなわち実際の値としては存在しないが「平均値」としては存在するこの「等」加速度について、考察を進めることができる段階へと至ります。

 

 ここで、この「向心力」について、改めて明確にします。

 「向心力」aとは、一種の「平均値」です。「平均値」は具体的には「存在しない」値です。もちろん、「たまたま」や」「一瞬だけ」、「平均値」と同じ「値」が存在する場合もあります。しかし「一般」論としては、「平均値」とは具体的には存在「しない」値です。

 これは1と3とが存在しても、その平均値である2が「具体的値」としては存在しないのと同様な理屈です。

 

 しかし、「具体的」には存在「しない」としても、「抽象的」には「平均値」は存在します。そして、「現実上」は、この「平均値」の方が、「具体的値」よりも、しばしば重量となります。何故ならば、「平均値」というものが、一般的には「事象の重心」を成すからです。

 

 「地球」と「月」との「引力関係」を分析する際に、地球の各部分をいちいち分析しません。地球の「重心」と月の「重心」の関係を考察します。これにより思考が飛躍的に高速化し、「本質」の分析へと進むことができます。

 

 このように「平均値」とは「便利」なものではあります。しかしこの「平均値」が、実際上は存在「しない」ということを忘却すると、「砂漠の蜃気楼」と同様になります。

 すなわち「遠く」から見ているときには「オアシス」が「有る」と見えるのに、「近く」なればなるほど、その「オアシス」が「見えなく」なります。それも当然です。もともとその「オアシス」はその場所には存在「しない」のですから。

 「向心力」も同様です。「全体」の「平均値」としては「等加速度」として存在「します」。

 しかし「個々」の局面局面では、実際の「張力」は「循環」しており、したがって各瞬間は「不」等加速度です。まさにこの「個々」の局面で、いくら「等」加速度である「はず」の「向心力」を探しても有るはずがありません。「無い」ものをいくら探しも、「有る」はずがないのですから。

 

(16)向心加速度の計算について

 以上、いわゆる「向心力」が、こうした「平均値」であることを「前提」としたうえで、この「平均的等加速度」を「計算」することができます。

 それでは、この「平均的等加速度」である「a」をどう計算すればよいでしょうか?

 

 単純に距離の式s=1÷2×atを使えば良いと考えます。

 この式を変形すれば、 a=2×s÷t となります。

 

 ここでこのsとtを測定すれば、平均的等加速度aが算出されます。

 またこれに伴い、「速度」vもまた、「平均的」なものとなります。

 速度v=a×tなりますが、これも実際には値としては存在しないが、「平均値」としては存在する「平均速度」となります。

 

 以上により、「向心力」についても、sとtが分かれば算出できることとなります。

 ただし、厳密な計算は困難なので「近似計算」を行うこととします。

 このため、状況を簡略化して設定します。

 具体的には、物体Aの循環的運動の「頂点」の位置Q点について、このQ点は実際上は棒端B点が描く「円軌道」から「離れて」存在しますが、近似計算の都合上、このQ点がこの「円軌道上」にあるものとして計算を行います。そしてこの円軌道上の「頂点」をT点とします。実際の「回転」運動においても、この頂点Q点は円軌道からわずかに離れるだけですから、この想定しても特段の無理は生じないと考えます。

 

 ここで、「外力」が物体Aに加わり、その結果物体Aが「等速直線運動」行おうとする瞬間の速度を「初速度」vとします。

 この初速度に対して、まずはこれと直角方向に「向心力」aが作用して行きます。

 これにより、この物体Aの運動軌道は曲げられて行きます。

 そして曲げられながら、物体Aの運動はその「頂点」に達します。

 ここでこの「頂点」はQ点ですが、近似計算の都合上、この「頂点」はT点となります。

 

 ここでもし「張力」が働かなければ、物体は「直線上」を進行し、S点へと到達します。

 物体Aが初速度vで時間tで、P点からS点へと到達したならば、この線分PSの「距離PS」は「vt」です。すなわちPS=vt です。

 

 他方この物体Aには同時に「張力」により、加速度aを生じています。

 この加速度aは物体Aを中心点O点へと引っ張ります。

 この結果、物体Aは中心点Oへと移動していき、「頂点」T点(実際にはQ点)に到達します。

 すなわち、S点にあるべき状態から、T点へと「移動」します。

 この「移動距離」をs(スモールs)とします。

 すると線分ST=s となります。

 

 ここでこの「s」は、物体Aが、張力による「平均的等加速度」aを受けて、その結果「移動」した距離です。

 ここで「等」加速度運動における、物体の運動距離は、一般に「1÷2×at

」です。したがって 「s=1÷2×at」となりますが、この「t」はPS=t における「t」と同じ値です。

 

 ここで回転の「半径」を「r」とします。

 

 すると、線分SO=線分ST+r=s+r となります。

 

 ここで「ピタゴラスの定理」を用います。

 

 するとSO×SO=PS×PS+r×r となります。

 ここでSO=s+r、PS=vt です。

 

 よって (s+r)=(vt)+  となります。

 

 これを展開すると

      s+2sr+=v+ なります。

 よってこのrを辺々消去すると s+2sr=v となります。

 

 これにs=1÷2×、すなわち s=1÷2×at を代入 します。

 すると

  (1÷2×at+2×(1÷2×at)×r=v2  となります。

 

 ここで (1÷2×at=(1÷2×a)×t4  ですが、このtは、極めて小さいので「0」と見なせます。

 

  ゆえに (1÷2×at=0 です。

 

 したがって、この「0」をもとの式に代入すると

 

   0+2×(1÷2×at)×r=v2 となります。

 

 そして、辺々をこのtで割り、整理すると

 

       ar=v

 

 よって  a=v÷r となります。

 

 ここに「平均的向心加速度」aが、算出できることとなりました。

 

 以上「向心力」の分析をひとまず終了し、「遠心力」の分析に取り掛かることとします。

 

(17)「遠心力」とは何か?

 結論から言いますと、「遠心力」とは、「向心力によって生じる慣性力である。」と考えます。

 すなわち「遠心力」とは「慣性力」です。

 私が、「遠心力」と「遠心疑似力」とを「区別」するのも、この「慣性力」が「基準」となっています。

 すなわち、「慣性力」であるものが「遠心力」であり、この「遠心力」に「疑似」しているが、「慣性力」では「無い」事象を「遠心疑似力」として区別しています。

 したがって、この「遠心力」と「遠心疑似力」とは、互いに「似て」はいますが、本質において互いに「異なる」事象です。

 

 「遠心力」とは「慣性力」です。

 したがって、「遠心力」を分析する前に、「慣性力」とは何かを把握しておく必要があります。

 これまでこの「慣性力」についてはすでに述べてきましたが、この「遠心力」の考察に係範囲でこの「慣性力」を把握し直し、新たな考察も付け加えたいと思います。

 この事柄の性格上、これまでに述べたことの「繰り返し」の部分も多々出てきますが、ご容赦ください。

  (18)慣性力とは何か?

 さて「慣性力」とは何か? 一般に「慣性力」とは「見かけの力」とされています。

 すなわち「実在」しないが、有ると想定すると計算上便利な力、であるかのように扱われています。しかしそうではありません。「慣性力」とは、「実在」する「現実的」な力です。

 

 それではその「慣性力」とはいったい何でしょうか?

 慣性力とは「物的加速度の伝搬の遅延によって生じる力である。」と言うことができます。

 この「慣性力」の本質から、様々な「慣性力現象」が生じます。

 

 しかし、「物的加速度の伝搬の遅延」と言っても、これだけでは何のことか分かりません。

 具体的に順を追って考察する必要があります。

 そこで単純な具体例から考察することとします。

 

 今電車の中で、これを書いています。

 電車の中に「吊革」があり、それに「吊り輪」が付いています。

 

 電車が「停まる」とこの「吊り輪」は下に垂れます。

 

 電車が動き出し、加速して行くと「吊り輪」は後ろの方に「傾きます。

 

 電車の速度が一定になると、再びこの「吊り輪」は下に垂れます。

 

 電車が「減速」していくと、この「吊り輪」は後の方に傾きます。

 

 ここで電車が「動き出すとき」すなわち電車が「等加速度運動」をして行く時、この電車の等加速度をaとすると、この電車の中の「吊り輪」にも、その電車の等加速度が「伝搬」していき、この「吊り輪」のも等加速度aで運動して行きます。「この時」、この「吊り輪」が「傾く」のです。

 

 さて、ここで電車の加速度はaです。

 吊り輪の加速度もaです。

 どちらもa同士ですので、一見この電車と吊り輪との間には何の力も生じないかのように「見える」のです。そこで止むなく「見かけの力」を想定して、計算上のつじつまを合わせる他が無くなるのです。   

 これにより「計算」は可能となります。しかしその「代償」として。「慣性力」の本質が、「謎」のまま残されることとなります。

 

(19)加速度伝搬の遅延とは何か?

 しかしこの「謎」を解く「鍵」は、この目の前の「吊り輪」にあります。

 日常目にするこの「つり輪」をしっかりと「見る」だけで、この「謎」を解く「糸口」が見つかります。

 

 まず電車が「等速運動」をしている時です。この時この「吊り輪」は、「何故」「垂れて」いるのでしょうか?

 それは、電車の速度をvとすると、この「吊り輪」」の速度も同じvとなったからです。

 

 これは「並走」するA、B二人のランナーに例えることができます。

 AとBとの「速度」が「同じ」であれば、AとBとの「距離」は離れ「ません」。例えBが「加速」したとしても「同時に」加速したとすれば、AとBとの「距離」は離れ「ません」。

 

 しかし、選手Bが加速度aで加速し、Aもまた「少し遅れて」加速度aで加速したとすればどうでしょう?

 

 選手Aも選手Bも、その加速度は「同じ」aです。

 しかし、その「速度」はどうでしょうか?

 速度v=at  です。

 速度は加速度が「作用」した「時間」に比例します。

 

 ここで選手Aは選出Bに比し、加速が少し「遅れ」ました。

 結果、選手Aの加速「時間」は、選手Bの加速「時間」に比し、「短かく」なりました。

 結果、「同時刻」において、選手Aの「速度」は、選手Bの「速度」に比し、少し「遅く」なりました。

 結果、選手Aは選手Bから「遅れて」、「離れて」行きました。

 結果、選手Bは選手Aより先にゴールインし、勝利しました。

 

ここから次のことが分かります。

  選手Bが選手Aに勝ったこと。

  それは、選手Bと選手Aとの間に、「距離」の差が生じたこと。

  それは、「同時刻」において、「速度」の「差」が生じたからであること。

  すなわち、「同時刻」において、選手Aの「速度」が、選手Bの「速度」に比し「遅く」なったからであること。

  それは、選手Aが選手Bよりやや「遅れて」加速を始めたからであること。

  しかし、選手Bも選手Aも、加速能力自体には差が「無く」、選手Bの加速度も選手Aの加速度も、ともに「同じ」aであったこと。

 

以上のことを、先の「吊り輪」に当てはめてみます。

 

  「吊り輪」が傾いていること。

  「吊り輪」の位置が、等速状態における、「垂れた」状態の「吊り輪」の位置から、「離れて」いること。

  それは、「電車」と「吊り輪」との間に「同時刻」において、「速度」の「差」が生じたからであること。

  すなわち、「同時刻」において、「吊り輪」の「速度」が、「電車」の「速度」に比し「遅く」なったからであること。

  それは、「吊り輪」が「電車」よりもやや「遅れて」加速を始めたからであること。

  しかし、「電車」も「吊り輪」」も加速度自体には差が「無く」、「電車」の加速度も「吊り輪」」の加速度も、ともに「同じ」aであること。

 

 すなわちこれを要約すると、

  加速する「電車」の加速度と、その中に付設されている「吊り輪」」との加速度は「同じ」である。

  したがって、加速する「電車」の加速度をaとすれば、その中に付設された「吊り輪」の加速度もaである。

  しかしこの時、「吊り輪」」は「傾いて」おり、その「吊り輪」の「位置」は、「等速運動状態」での「吊り輪」の「位置」から「離れて」いる。

  したがってこの時、「電車」の「速度」と「吊り輪」」の「速度」とは、同じでは「無く」、「電車」の「速度」に比し、「吊り輪」の「速度」が、「遅れて」いる。

 

以上が、第1の重要な「結論」です。

これを「一般化」しますと、「加速して行く物体Bによって加速される物体Aは、加速度において同一であり、速度において物体Bに遅れる」となります。

 

 加速体Bと、被加速体Aが、加速度において「同じ」であり、しかし「速度」において「異なる」。

 

 この結論が、私の知る限り、一般の物理学において「欠落」していた観点なのです。

 この観点が欠けているが故に、「慣性力」があたかも実在しない「謎」の力となってしまうのです。

 

 そして、この「速度」の「差」が、物体Bの物体Aに与える「加速度」が、その加速度の授与に際して僅かに「遅延」します。

 そして、この事によって、物体Bと物体Aとの間に、速度の「差」が生じます。

 それが故に、「加速度伝播の遅延」と表現するのです。

 

(20)加速度伝搬の遅延は何故生じるか?

 それでは「何故」こうした「加速度伝播の遅延」が生じるのでしょうか?

 その為には、「物体中」を伝わる「加速度」の本質を把握する必要があります。

 一般に「物体」は「電子」と「原子核」を有し、原子核はまた陽子と中性子とから成ります。

 したがって、この「物体中」における「加速度」の「伝搬」を分析する為には、この「電子」の運動と「原子核」の作用とを、分析する必要あります。

 

 さて、物体的の代表としては、「張力」と「弾力」とがあります。

 しかし、「張力」も「弾力」も「本質」においては「同じ」ものです。

 すなわち「引っ張れ」ぱ「張力」であり、その手を「離せば」「弾力」です。

 その「張力」も「弾力」も、結局は、「物体中」の各分子における「電子軌道」の「変形」に起因しています。

 「物体的力」・「物的加速度」というものは、結局はこれらの電子の「軌道」の「変形」が「順次」繋がって行くことによって「伝搬」して行きます。

 

 一つの物体中を、物体的力や物的加速度が「伝搬」して行く中では、膨大な数の分子とその分子の電子軌道の変形を経て行きます。

 ちなみに炭素原子12gは1モルとされています。1モルとは6×10の23乗個の粒子数にあたります。僅かな物体においても、これだけの原子・分子が関わっているのです。

 そして、各原子・分子に「電子」が一つとは限りません。したがってこの「物体中」における「加速度伝播」にはさらに多くの「電子」が関わっているのです。

 これが「加速度伝播の遅延」を生じる「一つの」理由です。 

 

 もう一つは、「原子核」です。

 「電子」が「張力」(弾力)に関わるとすれば、原子核は「質量」を、したがって「慣性」に関わります。

 外部から物体に対し力が、その力の「接触点」を通じて、その物体の内部に浸透・伝搬して行くに際して、これら原子核の持つ「質量」が「慣性」となって、一種の「抵抗力」を形成します。

 これら「原子核」一つ一つのこの「抵抗力」は弱くても、次第にこの「抵抗」が「累積」して行き、やがて「全体」として「一つの」「慣性力」を形成するに到ります。

 

 かくして物体内部の個々の原子・分子は、「外力」に対して二面牲を有します。

 「電子」はその電子軌道の変形・歪みを通じて、「外力」を物体内部に「伝搬」しようとするのに対し、「原子核」は原子核が有する「質量」したがって「慣性」が、この「外力」に対する「抵抗」として作用し、「外力」の「伝搬」を弱めようとします。

 

 この「原子核」の「抵抗」が、次には「電子」に作用し、加速される物体の電子軌道の変形・歪みは、今度は「加速する物体」の電子に作用し、「加速する物体」の電子は加速する物体の原子核に「力」を、すなわち「反作用」を与えます。

しかし、ここでは考察の使宜上、この「反作用」の影響が極めて小さい場合、すなわち電車が吊り輪を加速するような場合について、当面の考察を行います。

 

(21)慣性力の形成過程について

 さて、ここで加速する物体Bによって、物体Bと物体Aの接触部を通じて、物体Aに物的加速度が浸透してきました。それによって物体内部の電子がその「加速度」を「伝搬」しつつ、原子核がその浸透を「遅らせ」て行きます。

この「加速度」の「伝播」と「遅延」は、接触部における原子・分子から次の原子・分子へと連鎖し、さらに次の原子・分子へと連鎖して行きます。

そしてこの連鎖は、物体の「末端」に達するまで続きます。

そしてこの連鎖が、物体の「末端」にまで達した時、その時「初めて」この物体Aは、一つの「統一体」として一つの「等加速度運動」を開始するに到ります。

それまでの間は、いわば、「等加速度運動」へと到る「過渡期」で、物体Bにとしての接触部から「順次」「加速」を始めているが、残りの部分はまだ加速度運動を開始して「おらず」、等速運動をしている状態です。

 

この「加速度」が物体A に浸透・伝搬していく過程は、多少なりとも名原子・分子が、押し合いながら、「一つの」等加速度に「収れん」して行く過程でもあります。

そしてその過程は、各原子・分子によって生じる「加速度伝播の遅延」が「累積」する過程であり、したがって「慣性力」が「蓄積」されていく過程でもあります。

 

したがって、「慣性力」が、「形成」・「蓄積」されるのは、物体Bから浸透してきた加速度により、物体Aが「等加速度」と成って行く、まさに「その時」、その「期間」である、と言えます。

 

(22)慣性力の保持過程について

 「慣性力」は、物件Aが、「等速運動」から「等加速度運動」へと移行して行くまさに 「その」過程において形成されます。

 そしてこうして形成された「慣性力」は、「等加速度運動」の「中で」、「保持」されます。

 

 具体に見てみます。

①電車が「静止」しています。「吊り輪」は垂れて静止しています。

②電車が動き出します。「吊り輪」が、後方に傾き始めます。この時、「慣性力」が生成されつつあります。

③電車が「等加速度」で進行して行きます。「吊り輪」は「傾いた」まま「静止」します。

 この時、「新たな」慣性力は形成されません。しかし、「すでに」形成された「慣性力」は「保持」されています。通常私達が「慣性力」と呼んでいるのは、この「保持」された「「慣性力」です。

④さて電車が「等速度」運動に移り始めました。電車と「吊り輪」との間に生じていた「緊張」関係はほぐれて行き、「慣性力」は次第に弱くなってきます。これとともに「吊り輪」は次第に垂れて行きます。

  電車が「等速度運動」となりました。「吊り輪」は垂れて「静止」します。

  電車が「減速」を始めました。「吊り輪」が、今度は「前方」へと「傾いて」行きます。「慣性力」が先ほどとは「逆」方向に生じ始めました。

  電車が「減速等加速度」となりました。「吊り輪」は「前方」に「傾いた」まま「静止」します。

  電車が、静止体制に入りました。電車がゆっくりと速度を落として行きます。「吊り輪」は再び垂れ始めました。

  電車が静止しました。「吊り輪」も垂れて静止しました。

 

 以上が物体における「慣性力」の具体的な例でした。

 

 ここで注意を要する事は、通常私たちが「慣性力」と呼んでいるのは、この③の電車が「等加速度」である時の「慣性力」です。「この時」には、「新たな」慣性力は生じて「いません」。 「この時」存在している「慣性力」は、②の段階で「既に生じている」慣性力を(運動の中でまた運動を通じて)「保持」しているに過ぎません。

 したがって、この③の段階では、「慣性力」の「原因」はすでに「消え」去っており、その「結果」のみが残っています。

 従って、③の段階の「慣性力」のみを、いくら考察しても、「慣性力」の「本質」に到達しません。

 何故ならば、ここでは「慣性力」の「本質」である「加速度伝搬の遅延」していく過程が、すでに「消滅」しているからです。

 その結果、「慣性力」は、ますます得体の知れない「謎」の力と成ってしまいます。

 その結果、「慣性力」は「実在」しない「見かけ」の力として扱われてしまいます。

 しかし、「慣性力」」こそは「実在」する力であり、力の中の力、真の力であると言えます。

 

(23)等加速度運動の分析について

 ここであらたな疑問が生じます。

 電車Bと吊り輪Aとがともに等加速度aであるとして、そしてその「速度」の「差」が△vであるとしも、何故②では吊り輪が「動き」、③では吊り輪の動きが「止まり」そこで「静止」するのか、という疑問が生じてきます。

 この問題を突き詰めて行くと、等速運動状能での吊り輪の仕置、これを基準点としたならば、②の場合はこの「基準点」から「離れて行き、③の場合は、「それ以上」離れないのか、という疑問に帰結します。

 ②の場合も③の場合も、ともに加速度運動をしています。しかし、一方は基準点からの「距離」が「離れて」行き、他方は基準点からの「距離」が「固定」し、結果「静止」する、この「違い」は「何か?」という疑問が生じます。

 

 ②の加速度と③の加速度における「違い」は「何か?」、ということでまずはこの「加速度運動」について分析を進めることとします。

 考察の便宜の為に、「等」加速度運動について分析を進めます。

 

 ここに2つの物体Aと物体Bとがあり、ともに「等」加速度運動をし、その「等」加速度運動をするとします。

 ここで分析を容易にするために、この物体Aと物件Bとが、「落下」し、ともに「同じ」引力加速度gを得ている場合を想定します。

 

 ここで先の②に相当するのは、「落下」とともに、物体Aと物体Bとが、「離れて」行く場合で、③に相当するのは、この物体Aと物体Bとが、「一定の距離」を保ったまま、ともに落下して行く場合に当たります。

 

 しかし、ここで、②に相当する場合も、③に相当する場合にも、ともに引力加速度は、「同じ」gです。

 一体このような「違い」が生じ「得る」でしょうか?

 生じ「得ます」。

 この「違い」を生じる「理由」を理解する為には、まずは「等」加速度運動には、「二つ」の「形態」があることを理解しなくてはなりません。

 具体的には、「異時等加速」(異時落下)と「同時当加速」(同時落下)との、二つの「形態」とがあります。

  (24)異時等加速と同時等加速について

 ここでガリレオの時代に、時間を戻します。

ガリレオが高さ約50mの「ピサの斜塔」から、互いに「重さ」が異なる物体Aと物体Bとを「同時」に落としました。この結果、A、B二つの物体は、約3秒後に「同時」に着地しました。

 ここに物体の落下速度は、「重さ」には「関わらない」ということが証明されました。

この時アリストテレス物理学は崩れ、近代物理学の基礎が築かれました。

 

 ここで一つ重要なことがあります。

 それはガリレオが、A、B二つの物体を「同時」に落としたことです。

 ここでもしガリレオの手が、物体Aより物体Bを「0.1秒」「遅く」離したとしたらどうなるか?

 物体Aに「0.1秒」「遅く」物体Bが「着地」します。この「差」は、「0.1秒」です。 

 その「差」は手を「離す」時の「差」と変わりません。

 しかし、物体Aが落下し.物体Bを落とすその「0.1秒」の問に、物体Aはすでに約0.m落下しています。すなわち物体Aと物体Bとの間の「距離」は、すでに約0.m「離れて」います。

 さて、着地直前ははどうでしょうか?

 物体Bが3秒落下すると、その落下距離は⒋9×3×=44.1です。

その間に物体Aは3秒+.1秒落下しています。したがってその若落下距離は⒋9×.×.=47.1です。

4.1-44.=.  です。

 すなわち、落下「直後」には、物体Aと物体Bとの「距離」は0.mであったものが、3秒後には3.mもの「距離」の「差」と成ったのです。

 

 「僅かな」時間の差が、時間の経過と共に拡大して行き、やがて大きな「差」と成っていくのです。

 

 これは「滝口」へと向かう川の流れと似ています。

 川の水が次々と流れて来て、滝口へと向かい、そこから「順次」落下して行きます。

 滝口へと向かう水の流れは、滝口から「落下」していく瞬間が、それぞれ少しずつ「違い」ます。

 その結果落下して行く過程の中で、落ちていくその各部分各部分は、少しずつ「離れて」行きます。その結果、落下して行く水の流れは細かく「分断」されて行き、落下距離が長ければ遂には「水滴」と成って行きます。

 これが「等加速度運動」における「異時加速」です。

 物体Aと物体Bとの落下(加速)における時間の「僅かな」差が、やがて大きな「距離」の「差」との成って行くのです。

 

 ガリレオは、「同時」に落としたから、物体Aと物体Bとの「距離」の差そのものが生じなかったのです。あるいは「同時」と見なせるほど近接した瞬間にA、B二つの物体を落下させたので、50m程度の落下ではA、B二つの物体間に、「認識できる」ほどの「距離」の差は生じなかったのです。

 このように、「同時」に落下(加速)するときの落下運動(加速度運動)が、「同時加速」です。

 

 ここで「同時加速」にもまた「形態」があります。

 ガリレオは、「同じ場所」で、「同時」にA、B二つの物体を落下させました。

 すなわち「同地点」で「同時」に落下させました。

 いわば「同地点」「同時」落下です。

 

 ガリレオが、「同じ」「地点」で「同じ」「時刻」に物体を落下させたならば、A、B二つの物体は互いにほぼ一体となって落下して行きます。

 他方、ガリレオの真下5mの階に、協力者が居て、ガリレオが物体Aを落とすと「同時」に物体Bを落下させるとします。

 これはいわば、「異地点」「同時」落下です。

この場合は、A、B二つの物体は、どこまでも互いに5mの距離を保ちながら、落下して行きます。

 

 このように「同じ」「落下運動」(等加速度運動)であっても、その物体A、Bの落下の時期、落下の起点の違いによって、互いに「異なる」結果を生じます。   

 

(25)物体の質量(慣性)と異時等加速について

 ここで先程の②と③とに例えると、②が「異時加速」とみなせます。とすれば、③が、「異地点」「同時加速」とみませます。

 すなわち②においては、「加速度運動」に到る時期が、物体A内部における「質量」、したがって「慣性」の影響・抵抗によって、少しずつ「遅れて」行ったのです。

 すなわち滝口に向かう川の流れのように、少しずつ「遅れて」行ったのです。この「遅れ」の結果、物体B(たとえば「吊り輪」)は、物体B(たとえば「電車(の特定の位置)」から、「離れて」行ったのです。

 

 これは、加速する「電車」から、「吊り輪」に伝わって行く「加速度」の「伝播」が、物体Aに浸透して行く過程で、すなわち次々と「吊り輪」」(物体A)に伝わって行く過程で、「慣性」すなわち「質量」の「抵抗」を受けて「遅延」して行くものです。

 したがって、「どの程度」遅延して行くかは、もっぱらこの物体Aの「質量」の「大きさ」によって定まります。

 

 すなわち「吊り輪」の「質量」が大きければ大きいほど、加速度伝播は「遅延」しようとします。

 その結果、「質量」が大きれば大きいほど、「吊り輪」」(物体A)は、「電車(の基準点)」から「離れ」ようとします。

 

 ここで考察の簡素化のためにいったん「吊り輪」から離れます。

 電車の床基準点Bを定め、ここに「ばね」Cをつなぎます。ここばねCには質量(慣性)がなく、張力のみが生じるものとしま。

 そしてそのばねCの先に物体Aをつなぎます。

 すると電車の加速とともに、電車の床の基準点Bから電車の加速度がばねCを通じて物体Aへと伝搬して行きます。

 物体Aは次第に基準点Cから離れていこうとしますが、「どれだけ」離れるかは、物体Aの質量の大きさと、ばねCの「張力」の大きさにかかってきます。

 そして「張力」はその「伸び」に比例します。

 結果、今度はこの「張力」により、「電車」と「吊り輪」との「距離」の「伸び」が制限されて行きます。

 

 そうこうするうちに、電車から次々と繰り出されて来る「加速度」の第1波が、遅れながらもこの物体Aの「末端」まで到達します。

 「ここ」に来て始めて、もうこれ以上の「先」に、加速度伝搬の障害となるもの、すなわち「質量」が無くなるとともに、この「加速度」を「伝播」する「媒体」もまた無くなります。

 「加速度」の第1波の、物体Aの末端への「到達」とともに、電車の基準点Bと物体Aとの「距離」は、「これ以上は」伸びなくなります。

 すなわち、電車の基準点Bと物体Aとの「距離」が、「固定」します。

これとともに、物体Aに生じるばねCの「張力」もまた「固定」されます。

 

 加速する電車の中の「吊り輪」もこれと同様です。

 「ばね」Cに相当するものが「吊り革」です・

 ただし、「ばね」の場合に物体Aの運動を「制限」していたのは「張力」でしたが、「吊り輪の」の場合はやや複雑です。

 単純な「張力」ではなく、「吊り輪」のなす「吊り角度」も重要な要素となるため、考察がやや複雑となります。

 この煩雑を避けるために、「吊り輪」を「ばね」に代えて考察しましたが、本質は同じです。

 

(26)異時等加速から同時等加速への転換について

 以上により、電車(物体B)と「吊り輪」(物体B)との「距離」が、一定「固定」されると、この電車(物体B)が、「吊り輪」(物体A)に与える加速度は、物体Bと物体Aとの「距離」が「固定」されている為に、「異時加速」から、「異地点」「同時加速」に転じます。

 かくして、電車と吊り輪との関係は③の状態となり、電車と吊り輪とは、「同じ」「等」加速度運動にも関わらず、その「距離」が「離れ」かつ「固定」したまま、運動を続けて行きます。

 

 そして通常私たちが「慣性力」と言っているのは、この「固定」した状況の「慣性力」のことなのですが、これは言わば「家」に例えれば、「建て終わり」「完成」した状態の「家」であり、「建設中」の「家」ではありません。

 「慣性力とは何か?」について分析・考察する場合にも、「完成」した「慣性力」のみならず、まさに生み出されつつある躍動した状態の「慣性力」もまた一層重要です。

 

(27)慣性力の計算について

 さてともあれ、「慣性力」が「完成」し、「慣性力」が「一定」の「大きさ」に達した時、私たちはこの「慣性力」の「大きさ」を「計算」できるようになります。

 

 その為にはまずこの「慣性力」の「慣性加速度」を計算しなくてはなりません。

 ここでその「慣性加速度」をiとします。

 またここで物体Bが物体Aを「牽引」し、結果物体Bと物体Aとが「異地点」「同時加速」の状態に至ったとします。

 そしてこの状態での物体Bと物体Aの等加速度を、ともにaとします。

 そして時刻tにおける物体Bの速度をvBとし、その時の物体Aの速度をvBとします。

そして、△t秒後に物体Aの速度が速度vBに達したとします。

この時の時刻をt′とし、この時の物体Aの速度をvAとします。

 

 するとこのtの時点では、物体Bは的刻tの時よりさらに速度を大きくしています。そしてこの時点における物体Bの速度をvBとし、時刻tにおける物体Bの速度との「差」を△vとします。

 すると、物体Bの加速度がaですから、a(t-t′)=a×△=△vとなります。

 ここでもし、物体Aに「慣性力」が無く、「慣性加速度」iも生じないとしたら、時刻tにおける物体Aの速度は、物体Bの速度と「一致」するはずです。

 

 しかし、実際上は、「慣性力」が存在し、「慣性加速度」iが生じる結果、物体Aの速度はvBではなく、vAとなります。

 すなわち「慣性力」によって、物体Aの「速度」は、vAにまで「遅れ」たのです。

 したがって、△t秒間の間に、「慣性力」によって物体Aの速度はVB-vAだけ、「減速」されたのです。

 

 したがって、「慣性加速度」i=(vA-vB′)÷△   となります。

 ここで「前提」によれば、vB=vAです。

 故に  i=(vA-vB′)÷△=(vB-vB′)÷Δ

                 =(vB-vB)÷△

                 =-Δv÷Δt=a

 

 したがって「慣性加速度」i=「等加速度」-a (マイナスa) となります。

ここで物体Aの「質量」をmとし、等加速度aの物体Bによって生じる「質量」mの物体Aに生じる「慣性力」をⅠとすると、「慣性力」」Ⅰ=×=×(a)となります。

 

(28)慣性力に関する付加的論点について

 以上、「慣性力」についての基本的な考察を終えますが、付加的論点が3点ほど有馬す。

 その1は、「加速」時だけでなく、「減速」時にも「慣性力」が生じる点です。これについては、物作Bから物体Aに対し、「減速」方向へ加速度が、伝搬するが、この減速加速度が「遅延」しながら物体A に浸透・伝搬して行くと考えれば良いでしょう。

 

 その2は、これまで繰り返してのべて来たことですが、この「慣性力」には「濃淡」があるのです。

 すなわち「慣性力を「保持」している状態において、物体Aにとって、物体Bとの接触部に近いほど、その「慣性力」は「大きく」、「末端」に近づくほどその「慣性力」は「小さく」なります。

 かくして、物体Aにおける「慣性力」は、その物体Bとの「接触部」において「最大」となり、その「末端」において「零」となります。

 ここで通常私たちが、「慣性力の大きさ」と呼んでいるのは、この「接触部」における「最大慣性力」です。

 

 その3は、加速あるいは減速していく物体の「前方」にも「後方」にも生じます。

 ここで「加速」していく物体Bによって加速される物体Aを考えてみます。 するとそこに生じる「慣性力」は、物体Bの「前」にある場合は物体Aを「押す」力となり、物体Bの「後ろ」にある場合は物体Aを「引っ張る」力となります。すなわち「前方慣性力」と「後方慣性力」とが存在します。

 いずれも「本質」は「同じ」ですが、その「方向」が違います。

 ただしそのいずれもが、物体Bとの接触部において「最大慣性力」を生じ、その「末端」において、慣性力は「零」となります。

 

(29)前方慣性力と後方慣性力について

 遠心力の分析に移る前に、今少しその3について分析を深めておきたく思います。

 一般に「慣性力」は、被加速体Aが、加速体Bによって「加速」(物的加速)される時に、この「被加速体」Aの内部に生じますが、この時生じる「慣性力」は、加速の「向き」を「基準」として、二つに分類できます。

 すなわち「前方慣性力」と「後方慣性力」の二つです。

 具体的には、電車内の真中に「壁」を設置します。そしてそれぞれに物体Aと物体Aとを設置します。

 ここで電車の「加速」の「向き」から見て、この壁の「前方」に物体A、「後方」に物体Aを設置するとします。

 すると電車の「加速」とともに、物体Aと物体Aとの「双方」に、「慣性力」」が生じます。

この物体Aに生じる「慣性力」を「前方慣性力」、物体Aに生じる「慣性力」を「後方慣性力」とします。

 

 「前方慣性力」も「後方慣性力」も、ともに「慣性力」です。

 ともにその要因は「加速度伝搬の遅延」によるものです。   

 ともに、電車から生じる「物的加速度」が、「壁」を伝って物体A及び物体Aへと伝搬・浸透して行く過程において、「加速度伝播の遅延」が生じ、これが「慣性力」と成ったものです。

 したがって、「前方慣性力」も「後方慣性力」も、ともにその「慣性力」の「向き」は「加速度」と「反対方向」です。

 

 しかし、電車内に設置された「壁」との関係では状況がやや異なります。

 「前方慣性力」も「後方慣性力」もその「慣性力」の「向き」は、「電車の加速の「向き」とは「逆」です。

 その為、「前方慣性力」は、「壁」に対して、「突き当たる」ように作用します。すなわち「押力」(おうりょく)を生じます。他方、「後方慣性力」は、「壁」に対して、「引っ張る」ように作用します。

 ここで「押力」を「圧力」と言っても良いのですが、「圧力」という用語には、厳密には「単位面積当たりに作用する力」という概念が付着しています。ここでは「単位面積当たりに」という概念は不要なので、「圧力」と言はず、あえて「押力」という用語を使用します。

 

 このように一般に、「加速」(物的加速)において、前方慣性力は「押力」を生じ、後方慣性力は「張力」を生じます。そしてこれはしばしば「同時に」生じます。   

 ここで注意を要するのは。物体Aにおいても物体Aにおいても、その「物体「内部」において、その「慣性力」は「一様」では「無い」ということです。

 

 「慣性力」は、「物的加速度の伝搬の遅延」によって生じます。

 したがって、この「物的加速度伝搬の遅延」の「程度」とそこに関わる物体の「質量」すなわち「慣性量」に影響されます。

 この「遅延」によって生じた「慣性力」は、すぐ手前の部分に引き継がれます。この直ぐ手前の部分は、自己自身に生じた慣性力に、先の末端部分に生じた慣性力を「加えて」、さらに手前の部分へと「引き継ぎ」ます。かくして、物体の各部分は、次々と慣性力を「累積」させながら、最後に「壁」との「接触部分」に到達し、そこでこの物体の「最大慣性力」となります。

 通常私たちが「慣性力」」呼んでいるのは、この「最大慣性力」のことです。

 これは、物体Aについても物体Aについても「同じ」です。

 「壁」との「接触部分」に「最大慣性力」を生じ、その「末端部分」で「最小」となり、さらにその「末端部分」の先では、当然「慣性力」は「零」となります。

 

 

 かくして、この1分間の間に、あたかも整然とした「階段」を昇っていくように、「速度」が、「等しい」大きさで「累積」して行きます。

 

 その結果、この1分間の「全体」を見れば、この「断続」、「不等加速」運動が、あたかも「連続」・「等加速」運動であるかのように現象します。

(30)上方重力慣性力と下方重力慣性力について

 以上のことは「重力」(重力慣性力)についても同様です。

 2階建の家において、1階にとっての「天井」は、2階にとっての「床」です。

 つまりは一つのものです

 

 ここでこの床・天井の両面にそれぞれ物体を設置することとします。

 すなわち、2階の床に物体Aを、1階の天井に物件A′を設置します。

 するとそのそれぞれに「引力」が作用し、ついでそのそれぞれに「物体的力」である「鉛直抗力」が生じ、物体Aと物体Aのそれぞれに、「物的加速」を与えます。

 「引力」の「向き」は、当然ながら「下向き」です。

 これに対する「鉛直抗力」及びこれによる「物的加速」は「上向き」です。

 したがって、この「上向き」の「物的加速」によって生じる「慣性力」は、「下向き」と成ります。

 

 この結果、床・天井に対する関係については、「前方慣性力」は2階の「床」に対して「押力」を与え、1階の天井に対しては、「張力」与えます。

 ただしここでは「前方慣性力」「後方慣性力」とするのは、その「外観」にそぐわないので、「前方慣性力」は「上方慣性力」と、「後方慣性力」は「下方慣性力」と呼び直した方が良いでしょう。

 

 いずれにして、この「鉛直抗力」によって「慣性力」が生じ、これが「重力」(重力慣性力)と呼ばれます。

 

 ここで注意を要するのは、この「重力」にも二通りある、ということです。

 すなわち「上方重力慣性力」たる「上方重力」と、「下方重力慣性力」たる「下方重力」との二通りの「重力」があります

 ここで通常私たちが「重力」と呼んでいるのは、この「上方重力」(上方重力慣性力)のことです。

 この「上方重力」においては、物体を積んでいくと、下の方ほど「重力慣性力」が「強くなります。すなわち下の方ほど「重く」なります。

 

 しかしこれが「下方重力」(下方重力慣性力)では、「逆」となります。「天井」から順次物体を吊るして行くと、

 下の方など「軽く」なり、上の方ほど「重く」なります。

 

 「重力」が「全て」下の方ほど重い、と思うのは「錯覚」です。こうした「錯覚」が生じるのは、「通常」私たちは地面の「上」を歩いているため、「上方重力」のみを「重力」と思うからです。

 

(31)直線上慣性力及び重力慣性力について

 以上「慣性力」についての考案を一応終えて、「遠心力」(真正遠心力)の分析へと移ります。

 

 向心力が解明され、慣性力の基本内容についても解明されたので、「遠心力」(真性遠心力)についての基本的論点は既に尽くされました。

 後は、「遠心力」独自の特性、あるいは派生的論点について、分析・解明するだけです。

 そしてこのために、「遠心力」と「他」の「慣牲力」とを「比較」・検討していく中で、「遠心力」の独自性及び派生的論点について、分析・解明を進めて行きたく思います。

 

 さて、これまで分析へとして来た「慣性力」は、大別して二つあります。

 一つは一直線のレール上における「電車」等に関する「慣性力」です。

 これを「直線上」慣性力と、呼ぶこととします。

 

 もうひとつは「重力」です。これまで解明して来たように、「重力」もまた「慣性力」です。この「重力」が「慣性力」であることを明確とするために、この「重力」を「重力」慣性力と、呼ぶこととします。

 

 さて、「直線上慣性力」において、「加速体」B(電車)が電車の動力という「物体的力」によって、電車内の物体A(吊り輪等)を、「物的加速」により「加速」し、その「物的加速」の過程の中で、「被加速体」A(吊り輪等)に「加速度伝播の遅延」が生じ、これにより「被加速体」Aに「慣性力」が生じるということでした。

 

(32)直線上慣性力及び重力慣性力と遠心慣性力について

 「遠心力」についてもこれと同様です。

 回転運動する物体Bに「向心力」を生じ、この「加速体」Bが有する「物体的力」としての「向心力」によって、物体Aが「加速」されて行くとき、物体Aの「内部」に「加速度(向心加速度)伝搬の遅延」を生じて行きます。そしてこの時形成される「慣性力」が、「いわゆる「遠心力」呼ばれるに至るのです。

 

 しかし、この「遠心力」(遠心慣性力)は、「直線上慣性力」ともやや異なります。

「直線上慣性力」は、文字通り「直線上」で作用します。

 これに比し、「遠心力」(遠心慣性力)は、回転する「向心力」とともに「回転」します。

 

 ここで回転する物体Bに生じる「向心力」によって、これに「接続」された物体Aが、「加速」されて行く場合を想定することとします。

 そして、物体Bと回転の中心とを結ぶ「線」を、「向心線」と呼ぶこととします。

 

 なお、この「向心線」の「反対側の円周上には、回転の「安定」を維持する為に、物体B及び物体Aと同じ「質量」を持つ、物体Bと物体Aとを配置しておくこととします。

 すると、この物体Bと物体Bとの双方に同じ大きさの「向心力」が生じる為に、「回転」が円滑となり、安定します。

 

 ここでは、回転の「中心点」は、物体Bに生じる「向心力」と、物体Bに生じる「向心力」との「つり合い」を「媒介」するだけです。

 物体Bの「向心力」が「つり合って」いるのは、中心点の「向こう」の物体Bの「向心力」であり、物体Bの「向心力」と「つり合って」いるのは、同様に、中心点の「向こう」の物体Bの「向心力」です。

 すなわち、物体Bも物体Bも、その「向心力」は中心点に向かって」はいるものの、中心点を「求めて」いるものではないのです。

 これが、「向心力」を「求心力」と呼ばず「向心力」と呼ぶ理由です。

 

 さて、ここでこの物体Bの「向心力」によって物体Aが「加速」されています。

ここで.この物体Aについて「質量」したがって「慣性」を持つが、この物体Aの「質量」は、物体Bの「質量」に比し「小さく」、物体Aの「質量」は物体Bの回転に影響を与え「無い」ものと想定します。

 こう想定しないと、物体Aの質量が、物体Bの「回転」に影響を与え、そのことが物体Bの「向心力」に影響を与え、結果考察が非常に複雑となります。

 この煩雑を避ける為にこの様に想定します。

 

(33)遠心慣性力の特徴について

 「直線上慣性力」と同様に、「遠心慣性力」もまた「加速度伝播の遅延」によって生じますが、「直線上慣性力」が、「直線上」に生じるのに比し、「遠心慣性力」は、それ自体が、物件B及び物体Aの回転運動とともに「回転」していく、という顕著な特徴があります。

 

 「遠心慣性力」は「回転」します。何故ならばその「遠心慣性力」形成の元である「向心力」そのものが「回転」しているからです。

 「遠心慣性力」は「「回転」しています。

 しかし、これはこの「回転運動」の全体を見た場合です。

 ここで「見方」を変えてみます。

 「向心線」上「だけ」で、この「遠心慣性力」について考察すると、この「向心線上方」において、物体Bと物体Aとは、「常に」一直線上にあります。

 したがってこの「向心線上」でみる限り、「直線上慣性力」に関するほぼ全ての規定が、物体Bと物体Aとの関係において当てはまります。

 すなわちこの「向心線上」において、「遠心慣性力」は「直線上慣性力」と見なせます。

 

(34)外面遠心慣性力について

 ただし微修正もあります。

 物体Bも物体Aも、ともに「回転運動」をしています。

 ここでこの回転運動の内側を「内面」とし、その「外側」を「外面」とします。

 そしてその上で、この「向心線上」の「直線上慣性力」においては、「前方慣性力」を「内面慣性力」に、「後方慣性力」を「外面慣性力」にと、用語を置き換えることとします。

 するとこの「内面慣性力」には「押力」が生じ、「外面慣性力」には「張力」が生じることとなります。

 

 ここではまず、この「外面慣性力」すなわち「外面遠心慣性力」から分析を進めたく思います。

 この「外面遠心慣性力」には「張力」が働いています。

 この「張力」は、物体Aが物体Bの「向心力」によって「加速」される結果生じたものです。

 物体A自体は、回転運動の各瞬間瞬間に、自己本来の運動形態である「等速直線運動」に移ろうとしています。

 しかし物体Bによる「向心力」によって、物体Aの軌道は回転軌道へと、曲げられて行きます。

 

 ここでこの「向心力」から解き放たれると物体Aは、直ちに本来の「等速直線運動」へと「復帰」し、自由な空間へと飛び去って行きます。

 

 ここに「遠心慣性力」の本質が、顕著に現れています。

 もし「遠心慣性力」が一つの「独立」した力であるならば、物体Aは回転運動の「接線」方向に飛ばず、まさに「遠心慣性力」の「方向」(向き)に飛ぶでしょう。

 しかし、実際には物体Aは、「遠心慣性力」の「方向」には飛ば「無い」のです。

 このことは、「遠心慣性力」が「独立」した一つの力では「無く」、「向心力」によって「結果」として、「派生」した力である事を示しています。

 

 「向心力」と「遠心慣性力」との関係は、「加害」と「抵抗」との関係に似ています。加害者Bが被害者Aに対して、「有形力」を行使する。被害者Aがこれによる被害を避けようとし、抵抗する。そしてその「抵抗」の手段として、止む無く「有形力」を行使する。

 これを「外形」だけを見て、どちらも「有形力」を行使しているので、「犯行」としては「つり合って」いる、したがって両者を罰する、などとされたらたまったものではありません。

 幸いなことに、こうした場合のAの抵抗は正当防衛行為として、過剰で無い限り、違法性阻却事由として免責されることになるのではありますが。

 

 被害者Aの行使する「有形力」は、それ自体「独立」して行使されるものではなく、加害者Bによる「有形力」防ぐ為に止む無く、「抵抗力」として行使される「有形力」です。

 したがって、Bによる「有形力」が消減すればAによる「有形力」も消滅する関係にあります。

 そしてBによる有形力の行使が消滅したら、Aは自由を取り戻し、Åはさっさとその場を離れるでしょう。

 向心力と慣性力とは、これと同様な関係にあります。

 

 これに比し、Aもまた害意を持って有形力を行使したらどうでしょうか?

 つまり平たく言えば「喧嘩」です。

 そのあげくにとAとBが「引っ張り」合うに至り、そこで突然Bが手を離したらどうでしょうか?

 Aは、Bとは反対方向(反対向き)に、すなわちA自らの力の方向に、「飛んで」いくでしょう。

 独立した力と力との関係は、そのようになります。

 

(35)内面遠心慣性力について

 以上により、「外面遠心慣性力」についての考案を終了し、「内面遠心慣性力」の考察へと移ります。

 

 ここで設定を少し修正します。

 「外面遠心慣性力」の考察においては、物体Bが「球体」のようなものでも良かったのですが、「内面遠心慣性力」の考察においてはこれでは不安定過ぎます。

 そこで思い切って、物体Bを「壁」のようなものとして想定します。

 例えば私が幼少の頃体験した、回転する筒型の部屋の壁のようなものです。

 こうすると、この「内面遠心慣性力」が考察し易くなります。

 

 さてこの部屋が回転を始めます。

 すると「不思議な力」に身体が押さえつけられて行きます。

 今ではそれが遠心力であり、「内面遠心慣性力」が「押力」生じることを知っています。

 そしてこの「向心加速度」が、この部屋の「壁」Bから私Aに伝搬・浸透して来ていることを知っています。

 そしてその「向心加速度」が私Aの中に伝搬・浸透して行く中で、「向心加速度伝播の遅延」を生じ、その「加速度伝播の遅延」が「私Aの中に「遠心慣性力」を生じることも知っています。

 そして、この「向心加速度伝播の遅延」が、私Aを構成する分子・原子の持つ「慣性」であることを知っています。

 

 (36)慣性とは何か?

 ここで、はたと行き止まります。

 それでは一体この「慣性」とは何なのか?

 ということで、次にはこの「慣性」そのものの分析へと移ります。

 

 ただし、ここで注意を要するのは、「慣性」の世界も「慣性力」の世界も実に広大だということです。

 この新論物理学で考察出来るのも、この広大な慣性世界・慣性力世界のほんの一部です。

 したがってここではこの「慣性」の分析も、当面の問題の解決に資する範囲に留めます。

 

 「慣性」とは何か?

 この課題を考察する為にはやはりニュートンに戻る必要があります。

 ニュートンの「運動の第1法則」によれば、全ての物体は外力を受けない限り、静止状態(あるいは等速直線運動)を続ける、ということになります。

 これが「慣性の法則」と呼ばれています。

  

 この新論物理学でも、この「慣性の法則」が.考察の「基礎」となります。

 しかし、それでは「何故」この「慣性」が生じるのか、が問題となります。

 ニュートン力学によれば、それは結局「物体」の「属性」である、という事になります。

 つまりは、「物体」とはそういうものだ、という事になります。

 

 しかし、これは「万有引力の法則」とやや矛盾します。

 「万有引力の法則」において、「りんご」が「落ちる」のは、「りんご」の「属性」では「無く」、「引力」の作用によるものでした。

 「りんご」自体は、「落下」の「主体」ではなく、「引力」が「りんご」の「落下」の「主体」でした。

 すなわち「万有引力の法則」において、「りんご」はりんごの「落下」の「客体」でした。

 

 これは「りんご」の「売買」と似ています。

 「りんご」」が無くては「りんご」の売買は出来ません。

 しかし、「売買」の「主体」は売り手と買い手とであって、「りんご」ではありません。

 この場合「りんご」は「客体」としては「不可欠」であっても、「主体」では「無い」のです。

 

 「りんご」の「落下」においても同様です。

 「客体」である「りんご」なしには「りんごの落下」もあり得ません。

 しかしそうであっても、「りんご」の「落下」において、「主体」は、「引力」であって、「りんご」自体は、「客体」となります。

 「落ちる」のは「りんご」ですが、「静止」している「りんご」が「自力」で「落ちよう」とした訳ではありません。

 「引力」が「りんご」を「落下」させるのです。

 

 すなわち「万有引力の法則」においては、「落下」は、「りんご」(物体)の「属性」では「無く」、「引力」の「作用」によるものである事となります。

 「万有引力の法則」において「落下」は「物体」(りんご)の「属性」では「無い」、この点が重要な点です。

 

 ここで、「引力」による「物体」の「落下」が、「物体」の「属性」で「無い」ならば、「何故」、「慣性」は「物体」の「属性」という事になるのか?

 「引力」による「物体」の「落下」が、「物体」の「属性」で「無い」ならば、「慣性」もまた「物体」の「属性」では「無い」、と言えるのではないか?

 ここに大きな論点があります。

 

(37)慣性の主体は何か?

 それではこの「慣性」の「主体」は「何か?」という事が問題となります。

 この問題を解決するヒントが「万有引力の法則」にあります。

 「引力」とは目に見えません。物体中も「透過」して伝わります。物体中を「経由」せず、直接、物体から物体へと作用し合います。丁度、地球と月とが「引力」において、作用し合うように。

 つまり「引力」とは「空間的力」です。「空間的力」とはここでは「空間に生じる力」あるいは「空間を通じて伝わる力」とします。

 これに対して「物体的力」とは「物体に生じる力」あるいは「物体を通じて伝わる力」とします。

 

 すなわち、「引力」とはこの「空間的力」です。

 それでは、この「慣性」もまた「空間的力」ではないか、と考えるのは自然な流れです。

 ただし「慣性」については多様な側面があり、「慣性」世界も「慣性力」世界も実に広大です。

 ここでは慣性の分析について、問題解決に必要な程度の分析に留めます。

 したがってこここでは「慣性」の「受動的側面」、すなわち「慣性」における「抵抗力」の側面に係る範囲に分析を限定します。

 

さて、「慣性」の分析範囲をこのように限定し、「物体」と「慣性」と「抵抗」との関係について分析します。

 

(38)物体は何故静止し続けるのか?

 この上で、静止する物体は「何故」静止し「続けるのか?」、という問題を考察します。

 すると、静止する物体が「静止」し「続ける」のは、「抵抗」が生じるからだと考えられます。

 ここで物体Aがx軸、y軸、z軸の中心点に有るとします。x軸のプラス側に動こうとすると、直ちにこれに対する「抵抗」が生じるとします。するとその結果、物体Aはx軸のプラス側に動きません。x軸のマイナス側についても同様です。y軸、z軸についても同様です。その為物体Aは、「いずれの方向」にも動き「ません」、すなわち「静止」状態を「続け」ます。

 

 このように物体の「静止」について考察すると、「慣性」を持つ「物体」が「静止」し「続ける」のは、運動に対して「抵抗」が生じるからだと考えるのが、合理的だと思われます。

 これは「すり鉢」の底にある物体が、どの方向にも動けないのと同様です。

 それではこの「抵抗」が「どこから」生じるのか、という事が問題となります。

 しかし、この物体Aの回りには何もありません。

 回りには「空間」があるのみです。

 したがって、この「抵抗」は、物体Aの回りの「空間」に有るとしか考える事が出来ません。

 

 しかし、この様な力が、果たして「空間」から生じるのか?という疑問が生じます。

 こうした考えを突破させてくれるのが、「引力」です。

 「引力」が「空間的力」、「空間的加速力」であるならば、「慣性」もまた「空間的力」、「空間的抵抗力」であると考えても不思議では無い、と考えられます。

 「引力」も「慣性」も、ともに「空間的」な「力」であり「作用」です。

 

 こう考えると「外力」を与えると、「物体」が「動く」事も理解が出来ます。

 「静止状態」において、物徒は四方八方から、「空間抵抗」によって制止されており、身動きができません。そこに「外力」が加わる事によって、この「抵抗」を突破し、「動く」事が出来ると考える事ができます。

 

(39)物体は何故等速直線運動をするのか?

 「等速直線運動」についても同様です。

 ここで物体Aが「外力」を得て、x軸上をプラス側に運動を始めた、とします。

すると物体Aは、外力を加えられたx軸プラスの方向には、「抵抗」を突発して進行する事が出来ます。しかし、y軸方向からもz軸方向からも、物体Aの運動に対する「抵抗」が存在します。

 この結果、物体Aはx軸プラス方向には、進行出来ますが、y軸方向、及びz軸方向には進行出来ません。

 「この結果」物体Aは、x軸上をプラス方向に運動し「続ける」こととなります。

 

 以上、「慣性」における「空間的抵抗」を想定する事によって、静止状態及び等速直線運動における「慣性の法則」を、「合理的」に理解する事が出来ます。

 この為、私は「慣性」の「本質」は、「物体」ではなく「空間」にこそあるものと考えます。

 物体の「運動」(加速運動)に対する「空間の抵抗」こそ、「慣性の本質」だと考えます。

 

 それが故に、「慣性力」において、物体Bに「加速」される物体Aは、一方では物体Bに「押される」(前方慣性力の場合)に「押される」と共に、他方、「慣性」と称される「空間的抵抗」に「押される」のです。

 かくして、物体Bの「物体的力」と「慣性」による「空間的抵抗力」とに間に、物体Aが「はさまれる」事となるのです。そしてこの第1の力「物体的力」と第2の力「空間的抵抗力」との「結合」によって、第3の力である「慣性力」が生起するのです。

 

(40)内面遠心慣性力と空間の力について

 ここで「内面遠心力」に戻ります。

 私が「回転する部屋」で感じた「不思議な力」、「奇妙な圧迫感」の正体か明らかとなりました。

 この「圧迫感」の「正体」は、「空間」が私を「圧迫」する「力」だったのです。

 何も無い「空間」が、私を「圧迫」している、そこが「不思議」であり、「奇妙」だったのです。

 今私は、幼少の頃の自分に対して言う事が出来ます。「今、感じている力は、空間の力である」と。

 

 以上、遠心力についての分析を一応終えますが、もう少し考察を必要とする点があります。

 すなわち、遠心力(真正遠心力)と遠心疑似力との関係についての分析・考察を行いたく思います。

 「遠心力」について、様々な概念がある中で、私が「真正」遠心力とそれ以外のいわゆる「遠心力」とを「区別」する「基準」としたのが、「慣性力」です。すなわち「慣性力」を有する「遠心力」が「真正」遠心力であって、それ「以外」を、遠心「疑似力」としました。

 

 しかしそうすると逆に「慣性力」の中にも、この「真正遠心力」に「類似」した「慣性力」等が、多々存在します。

 そこでこれら「真正遠心力」に「類似」」した「慣性力」等を、「遠心類似力」として区分し、別途考察することとしました。

 この「遠心類似力」については、「遠心力」(真正遠心力)の後に、分析・考察することとします。

 ただし、この「遠心類似力」の世界も広大で、その全てについて考察し尽すことは出来ません。そこで身近なあるいは主要な「遠心類似力」に限定して考察を進める事とします。

 

(41)遠心力(真正遠心力)と遠心疑似力について

 さて「遠心力」(真正)と、「遠心疑似力」とに戻ります。

 「遠心力」と「遠心疑似力」との「根本的な「違い」は何か?

 それは「向心加速度」の「性質」が根本的に「違って」いる事に帰着します。

 「真正遠心力」を生じるのは「物的加速度」aです。

 これに対して「遠心疑似力」を生じるのは「引力加速度」ℊです。

 ともに物体を「加速」する点では、「同じ」です。

 

 しかし、「物的加速度」aが、他の「加速体」である物体Bからの「接点」を通じて、「逐次」(逐時)かつ「順次」物体A浸透して行きます。

 これに比し、「空間的力」である「引力」によって生じる「引力加速度」gは、物体Aに対して、「同時」(瞬時)かつ「直接」に作用します。

 この結果、「物的加速度」aについては、「加速度伝播の遅延」が生じるのに比し、「引力加速度」gについてはこの「加速度伝播の遅延」が生じません。

 この為、「物的加速度」aからは「慣性力」を「生じる」が、「引力加速度」gからは「慣性力」を「生じない」という、相異なる結果が生じます。

 

 これにより、「張力」という「物的向心力」は「慣性力」、すなわち「真正遠心力」を生じます。

 他方、「引力」という「空間的力」は、「慣性力」、すなわち「真正遠心力」を生じません。

 ここに「真正遠心力」と「遠心疑似力」とを、「区別」する理由と必要とがあります。

 

 しかし、「真正遠心力」が「円軌道上」に生じるのと同様に、「遠心疑似力」も「円軌道上」に存在します。

 これにより、「真正遠心力」も「遠心疑似力」も、あたかも「同じ」ものと見なされてしまいます。

 加えて、「計算上」も、ar=とgr=と、同じ形となり、ここに「真正遠心力」と「遠心疑似力」との「違い」は、全く「見えなく」なってしまいます。

 しかし、そうであっても、「慣性力」を「基準」とすれば、「真正遠心力」と「遠心疑似力」とは本質的には、全く「相異なる」現象だと言えます。

 

 回転するする部屋の中では、「慣性力」を生じ、これが「圧迫感」として感じます。

 他方、周回する人工衛星の中では、人も物も「無重力」となり浮遊します。つまり「慣性力」が作用していません。

 このように、「物的向心力」aと、「引力加速度」gとでは、根本的な「違い」が生じます。

 

 以上により、「遠心力」についての考察を終了し、「遠心類似力」の分析へと移ります。